在日を見えなくさせたくなくて

在日学生就活インタビュー
2010年12月11日

2年間企業に就活した後、最終的な就職先は在日の「民族団体」である総連の傘下の学生団体、「留学同」の専従職員へ。

文系。男性。日本国籍。3世。中小企業を中心に広告や人材派遣などの企業に、2年間就職活動したが決まらなかった。日本国籍なので本名は日本名。大学ではじめて民族名を名乗るということに出会った。

現在の社会では日本籍の在日が帰化前の姓である民族名を名乗ること(戸籍名とは異なる、在日としての名前を名乗ること)は一般的には認められていない。それでも民族名で働きたかったため、日本名で就活して、採用後は民族名で働きたいと企業に告げながら就職活動した期間もあれば、それがあまりにもやりにくいので、(名前を「偽る」ことになるのかもしれないと思いながらも)もう最初から民族名で受けていた時期もあった。

最終的な目標は編集に携わる仕事。名前のことで、壁にぶつかり苦しんだ就活は成功しなかった。しかし、その経験を大事にするためにも、当面の進路として、自分も学生時代頑張った留学同という在日学生の団体を専門的にサポートする仕事へ進むことにした。

簡単な紹介

関西出身。大学は京都の有名私大。実家の父は1世の祖父が創業した零細家業をしている。小学校のとき、両親が帰化して日本国籍を取った。就活で大きな要素となった名前のことは、両親は朝鮮語の読み方などは知らずに普通に日本的に名前をつけているし、大学に入る前は自分が民族名を使うなんて想像してもなかった。しかし、大学1回生のとき偶然、留学同という在日学生の活動に出あった。留学同の活動に取り組むようになってから、大学のゼミなどでも民族名を名乗り始めた。

就活は、就職先が決まらないまま2年間行うことになった。出身がメディア系の学部なので最初はなんとなくマスコミ系を受けたが、編集の仕事という自分の目標が見え出してからは広告代理店や人材派遣など幅広く中小を受けた。エントリーシートを出した企業で20社くらいだから、まわりに比べるととても少ない。名前の問題で悩み、考えさせられ、結果的に就活にうちこむことができなかったことが原因だった。

ある会社では一度合格通知がメールできたのに、翌日、急に取り消しのメールがきた。経緯は不明。一番したいのは編集の仕事だったが、出版社は難しいので、一度違う仕事に就職して、そこを足場に経験を積んでから追求したいと考えた。

日本国籍なので、法的な「本名」(戸籍名)は日本名。民族名で働きたいと思ったとき、就職活動でぶつかった名前の問題は一筋縄ではいかなかった。日本籍だからこその難しさがあった。制度的には本名ではない名前。在日だからそれを名乗るということが、企業に納得されるのか・・・。それでも、日本籍の自分だからこそ、在日を見えなくさせたくないとこだわっていた。

だが、「こうすればうまくいく」というような就活方法が持てずに、しんどい状態が続いた。就活に打ち込めなくて、受けた企業の数も少なくなってしまった。留学同の活動の仲間に日本国籍の子がいなかったので、本名で就活が一番という雰囲気の中、日本国籍の場合の名前のことを人に相談できずに暗中模索した。

今、当時の自分を振り返ると、ただ単に頑なに民族名を貫くことだけが答えではないというふうに考えることができる。当時は悩みが深く、そんなふうに考えられなかったが、自分の就活を通して、自分の生き方や家族のことにも向き合った経験は、今の進路へつながった。今の自分がやりがいをもってできる仕事として、留学同という在日の学生の活動を支える仕事を選び、この春(2010年)から総連の専従職員になる予定。

【活動期間】2008年2月~。2009年3月~再開。

2年の就職活動は、本人曰く「中身は全然濃くない(笑)」。

【就職先】留学同の専従職員

就活2年目の夏には、まだ就職先が決まっていなかった。いろいろ悩み、総連の職員として留学同の活動を支える「専従」という立場に就職することを決めた。この進路を親に納得してもらうことは難しく、これからの課題。
(留学同の特徴として、全国の留学同の各地方本部には、専従職員が2人ほど存在する。学生ではない立場から学生の活動をリード、サポートする役職。)

※留学同(在日本朝鮮留学生同盟)~日本の大学に通う在日朝鮮人学生の団体。 コンパやレクリエーションのほか、朝鮮語や歴史・社会についての勉強会、 社会運動など幅広く活動を展開。ルーツは戦前にさかのぼるが、現在は朝鮮総連の傘下。

就職活動をはじめるまで

在日だということは忘れていた、大学一回生の頃に

大学に入って、自分が在日であることを意識する機会は特になかった。留学同との出会いはまったくの偶然。一回生の冬、バイト先のピザ屋に新しく入ってきた人が在日だった。

バイト先に、在日の人が新しく入ってきて、僕よりもだいぶ年上の人で、民族名の人やったんですよ。僕はそのとき日本名で、まあ最初は自分が在日ですとかは全然言ってなくて。

そのバイトの忘年会のときにその人が、ほかのバイトのメンバーに、自分は在日で、なんで日本におるかみたいなのをすごい語ってはって、まわりのバイトの人らみんな、ぽかーん、てしてて(笑)!
で、その話の後に、「僕も在日なんですよ」っていう話をその人に言って。「まあ日本籍なんですけど」って。その後のバイトで、「在日の友達欲しくない?」って誘われて行ったんが、(留学同の)成人式の飲み会だったんですよ。それがはじめての留学同の場でしたね。

当時は、自分が在日だということは一応、「思っていたはいたけど・・・」という感じ。高校の時は在日が多い地域だったが、それに比べて、むしろ大学に入ってからは何も意識せず、自分が在日であることを「忘れていた」ような感覚だった。

(留学同に行く前は)自分のことを在日だと思ってたかどうかは、けっこう曖昧なんですよ。思ってるっちゃ思ってたんですけど。でも大学入ってから、自分が在日っていうのは人に全然言ったことなくて。それは別に言おうとしてなかったとか、意識的に隠してたとかいうつもりは全然なくて、なんかそういう話題も全然出てけーへんし、まわりにそういう人もいなかったんで、なんやろ、自分の中で忘れてた、みたいな感じがあったと思うんですよ。

そのときの飲み会では、友だちができたわけじゃないが(笑)、「ソンベ」とか「ヌナ」とかの朝鮮語をこんなふうに普通に使う人たちがいるんだということにカルチャーショックを受けて、興味は湧いた。先輩が何度も遊びに誘ってくれて、そのうちに人間関係ができて、最初は興味がなかった勉強会のような活動にも行ってみることに。自分では全然在日のことを勉強したいとは思っていなかったから、最初から学習会に誘われていたら行ってなかったかもしれない。

大学生活、留学同の活動

2回生のときから活動に行きはじめ、その後は自分の大学の支部で中心的に活動するようになった。振り返ってみれば留学同が大学生活の中心。それからは、いろんな場所で在日としての民族名を使うようになった。(この場合の民族名=帰化前の姓+下の名前を朝鮮語読みしたもの。本人の普通の言い方ではこの名前が「本名」。)

大学の授業には、時期にもよるが、面白い授業以外はあまり出ていなかったので、5回生で卒業した。遊んでいたし、「そこまで学ぶ気がなかった(笑)」。いつも夜勤のバイトや、留学同の活動をしていた。留学同では、たまに総連の大会に参加したりする活動もあるけど、自分たち学生でする活動では飲み会をしたり、ボックスで学習会をしたり、自分たちで考えた企画をしたり、ごく普通の学生サークル的な活動。

大学のゼミでは、フリーペーパーの作成をしていた。地域の居酒屋などをまわって紙面広告を出してくれる店を募った。「フォトショップ」などを独学で覚えて上手くなり、「広告をデザインして」と頼まれるところまでこぎつけた話などは、就活の面接でよく話した。自分で留学同の後輩にインタビューして、そういう活動に一生懸命取り組む学生がいることを伝える記事を作ったことも、企業によく話した話題。

就職活動の全体像

就職活動の開始は遅く、1年目は2008年の2月頃始めた。面接にいったのは5・6社。エントリーシートを出したのも10社くらい。当時は、団塊の世代が退職の時期で、新聞報道でも採用数は増えていて、楽に上手くいくと踏んでいたせいもある。メディア系学部なので、マスコミ系を最初に受けた。まわりと一緒で、「お金がいい」ことや「ブランド志向」から(笑)。メディア系は全然受からなかったし、人材派遣や広告代理店など興味があるところに広げていった。最終的に目指しているのは編集の仕事だが、まず足がかりとして、業種は問わず就職してから追求したいと思っていろいろ受けていた。

自己PRや志望動機では、いつもフリーペーパーの作成体験を述べた。面接には自分がつくったフリーペーパーを持って行った。モノや情報を創りだす企画を通じて、多くの人と一つのものをともに創り上げることが好きで、それができる仕事に就きたいなどと話した。

就活で不利になりたくないなら、わざわざ在日だと言わないでいいと思っていたが、自分の生き方として、留学同でしてきた活動をいかして生きていきたかったし、在日であることを自分から言っていきたかった。だからエントリーシートにも在日であることを書いたし、サークルで活動していたことも書いた。

わざわざ在日やって言わんくてもええんちゃうか、ほんまにただ就職したいだけやったら、他のことを書いたらええんちゃうかって。でも、じゃあ、今までやったきたことが無駄になるのかと思ったし。あと、他に書くことがあんまりなかったっていうのもあるんですけど(笑)。だから、自分は留学同しかやってけーへんかってんなぁって思った。

留学同の活動のことは面接でも話した。「留学同」という具体名は出さないが、在日朝鮮人が集まっている学生団体で、ずっと活動していましたと言って、学生どうしの交流や勉強、様々なイベントを主催してきたことを説明した。自分の方から、「僕も在日朝鮮人で、民族名は○○○というんですけど」と切り出す。最初は緊張したけど、だんだん慣れた。それでも若干の覚悟がいる。「よし、よし、言おう」と思って言う感じ。

名前のことは、就活一年目は、まず日本名で受験して、企業に対して、自分は民族名で働きたいという希望を告げる方法をとっていた。大手人材派遣会社の契約社員では、最終面接まで進んだとき、もう最終ということもあって、在日朝鮮人としての名前(それは認められていない名前だけど)で働きたいということ、それは企業にとってみたらおそらく「ややこしいこと」だが、ちゃんと言おうと決意した。「日本籍だけど、でも名前は民族名の方で仕事したい」という思いを面接官に説明した。
結果は受からなかったが、別に名前のことのせいではなかったと思う。

2009年は、3月頃から再開して、5・6社にエントリーシートを出し、面接には3社いった。小さなゲーム会社、大手IT関連の子会社、中小の広告代理店。この年は、はじめからいっそ民族名で受けていた時期がある。民族名で受けた企業のひとつ、小さなゲーム会社では一度合格通知がメールできたが、翌日取り消しの連絡がきた。経緯はわからない。このとき、自分の名前の問題について、もし受かっていたら、採用後に名前が偽名として問題化していたかどうかを余計に悩んだ。そこで、もう一度就活の名前を日本名に戻した。

このように、戸籍上の本名である日本名と、正式にはどこにも認められていないが自分が本当に名乗りたい名前である民族名のどちらを使って就活するのか、思い悩みながら、手探りで進むほかなかった。

就活を振り返って、一番問題だったと思うのは、日本籍だったからこそずっと悩んだ名前のこと。実家に余裕があるわけでもなく、とりあえず内定が欲しいとは思いながらも、民族名で働きたいというこだわりを捨てられなかった。サークルの仲間や先輩にも、この悩みは相談できなかった。そのとき、サークルに日本籍の人が自分以外はいなかったからだ。自分でも苦しみつつ試行錯誤したが、企業との対話は難しかった。面接官が若い人の場合、余計に在日に関する話や名前のことを理解してもらうのが難しく感じたこともあった。

就職先が決まらないまま、2年目が終わりそうな頃、すごく心配をかけていることは感じながらも、ずっと対話を避けていた両親と、ついにきちんと話をすることになった。そのとき聞けたのは、親が自分に期待した生き方というのは、「幸せに生きて欲しい」という思いだったこと。それまではずっと、自分が留学同の活動に学生時代を費やすことを否定されているようにばかり感じていたから、「幸せに」という言葉は意外だった。自分が、自分や家族の幸せのためにも、大事にしたいと思える活動=民族運動をすることが、親にとっては「幸せ」と逆方向のことに思えるという、その矛盾が本当に在日朝鮮人の状況の痛みだと感じた。このときの対話を受けて、まさにそういう状況を変えていくことが自分のしたいことなんじゃないかと思った。そんなきっかけもあって、今の自分にできることとして、留学同の上部団体にあたる総連という団体の専従として各地の留学同の活動を支える仕事を選んだ。2010年春からは、他の地域での留学同の活動を支えることが仕事になる。自分が就活で悩んだからこそ、今なら、就活に悩んでいる後輩たちを見ていて、自分が苦闘していたときよりも柔軟な考えができて、助言もできる。名前のことも、必ずしも常に絶対本名で就活しなきゃいけないわけじゃないし、逆に本名で就職したからといって、それでもうゴールなわけじゃない。

いわゆる民族団体で働くという選択肢を、親に理解してほしいとは言えないが、親が留学同60周年の大きなイベントを見に来てくれたときは嬉しかった。いまの自分としては、留学同で学んだこと、自分の生き方を大事にしつつ、選んだ仕事を頑張りたいという思いでいる。

これから就活のする人へのメッセージ

就職活動にも、在日の存在を見えにくくしてくる、今の日本社会がそのまま出てるんじゃないか。

「やっぱりその、しゅうかつ自体に問題が。就職差別っていうのが、こう、ばってあるんじゃなくて、もともとあるさ、在日朝鮮人が受けてる問題が就職活動っていう場面で顕著に出るもんやと。在日朝鮮人の問題って言ったら、もう、差別と同化。「同化」って、(在日の存在が)見えなくなってる、よくわからない。(就活に)それがけっこうそのまま出てると思うんすよ。逆に、そういう場面で自分がどういうふうに規定されてるのかっていうのがわかったりする。そのよくわからなさ加減がわかるっていうか(笑)。『あ、こんな曖昧な立場なんや』っていう。全然みんな知らんしっていう。そういう状況がわかるっていうか。そこで自分はじゃあどうするかっていうのが問われるじゃないですか。特に4年生とかになってから。そういうのを、自分からつっこんでいかんかったら、学部生の時ってわからんと思うんです。でも、進路選択のときっていうのは嫌でもぶつかるっていうか、絶対にやっぱりぶつかるじゃないですか。『自分がどういう存在か』っていうのに。だから、いっぱい悩んだらいいんじゃないですか(笑)。」

ただ適応するだけでなく、自分のことを考える機会として活かしてほしい。

「なんか、あと大学の中でやる就職の講座とか進路講座とか、僕一切いったことないんですよ。いや、一回だけ行ったことあるんですよ。で、あの雰囲気が嫌で。どうやって就職するかっていうノウハウを教えてくれる。なんか高三のときのどうやって大学に受かるかみたいなそんな感じ。就職予備校ってよく言われる。そんな感じで進路決めるのが、なんか、えーって、なんか嫌やなって。なんか、就職するために大学来る人もおるけど、僕はそうじゃないし、なんかもっと、自分の将来を考えるとか、そういう話をほんまはしたいのに、どういう生き方をするかとか。でも絶対そういう話じゃなくて、やっぱり学校からしたら就職するかどうかっていう、そのパーセントってすごい大事じゃないですか。だから、どうやって受かるかみたいな話になってくるし、あんまり好きじゃなかったんですよ。やっぱり雰囲気もそうなるんですよ。なんか、考えない雰囲気。なんかそういうのが嫌やった。受験戦争みたいな雰囲気。

だから、そういう就職講座はそれはそれで、自分は自分で、どういう将来を目指すかっていうのを考えらたらいいんじゃないですか。特に在日朝鮮人やから。まわりには、そんなに相談、特にキャリアセンターとかが相談に乗ってくれるとは思えへんし。考える。そういうときこそ、考える場面が出てくるし。」

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