とりあえず大企業に就職したけど、今の自分だったら違うやり方で就活する

在日学生就活インタビュー
2010年3月11日

就職先は大手IT企業。文系。男性。在日3世。4回生の卒業間近にロースクールから就活に進路変更して、1年就活浪人。3ヶ月ほどで今の企業に決まって就職。社会人3年目。

名前で悩んだ末、民族名(姓)の日本語読みで就職活動。 でも採用されてから入社までの間に名前を朝鮮語読みに変えたくなり、 名前を民族名の日本語読みから、姓名ともに朝鮮語読みに変えて会社に登録。

しかし運悪く外国人に差別的な上司にあたって、その上司との人間関係が一因で、転職を模索中。 とりあえず食いぶちを稼ごうと大企業に入ったけど、 いまは在日にとってタブーがない、気持ちよく働ける職場に出会いたい。

簡単な紹介

京都の出身。両親は西陣織の職人で自営業をしてきたが、 時代で織物業界が右肩下がりになっていくなかでいろんな副業もするようになった。 本人曰く家は「貧乏(笑)」。大学は愛知へ。2008年から社会人。

就職活動はすんなり決まったけど、その後現在までの経験から振り返った結果、本当に自分に合ってると思える企業と出会うために、もう少し違うやり方をすべきだったなと考えている。

「インタビュー受けといて恐縮なんですけど、就職活動はあまり成功したと思ってないです(笑)。 今の自分だったらもっと違ったやり方をするかなと。」

現在働きながら転職活動もしている。 そういう経験から、就活で何を大事にするべきなのかを考えてきた。

【活動期間】2006年の12月~2007年4月
【就職先】大手IT関連会社

就職活動を始めるまで

大学では留学同という在日学生の活動に出会った。朝鮮奨学会で出会った先輩から誘われて、 あやしい(笑)とは思いつつ、その人の人柄に惹かれて行ってみた。 その先輩は愛知では一度潰れていた活動を再建しようとして頑張っていた。 それに一緒に取り組み、在日の勉強をする活動が楽しくて好きだった。

結局は4回生のときの政治的な路線に納得できずに活動を離れたけど、 大学生活の一番大きな部分だった。他には、バイトバイトで、 いろんなバイトを経験した大学生活。売りは「オールマイティ」。

ロースクールに進もうとしていた4回生の冬、試験に落ちたので自分のやりたいことを問い直し、 就職活動を急にスタート。

急に就職しようと思ったんで。それまではロースクールにいこうと思ってて。 でも試験に落ちてたんでそっちやめて。 後輩が「明日就職の説明会ありますよ」て言ってくれて、「あ、じゃあ行くわ(笑)」みたいな。 それが学部の4年生の卒業間近で(笑)。

ロースクールで浪人しようかとも思ったんですけど、 でも前の一年を振り返ってみて、「これは俺はあまりやる気がないな」と思ったんですよ。 試験の前日にサッカーのワールドカップの韓国戦見てるんですよ、そんなやつはダメだろうと(笑)。

他に何か探そうと思ったんですけど、在日のこと勉強するんは好きっちゃ好きやったんですけど、 それで飯は食ってけないじゃないですか。だから、まあ、どうしようかなと。 韓国留学しようにもお金はないし、じゃあ就職活動やってみようということで。

※留学同(在日本朝鮮留学生同盟)~日本の大学に通う在日朝鮮人学生の団体。 コンパやレクリエーションのほか、朝鮮語や歴史・社会についての勉強会、 社会運動など幅広く活動を展開。ルーツは戦前にさかのぼるが、現在は朝鮮総連の傘下。

就職活動の全体像

上記のような事情があったので、初めて行った説明会が06年の12月。

それからネットをつなごうとしたら、「つながるのが1月の下旬です」て言われて!(笑) あ、終わったと思ったんですけど。

しかし、決まるのは速く、4月に大手IT企業に受かった。 嬉しかったし、お金がもう限界だったのでそこで打ち止め。

今から思えばそこでやめずに続けとけばよかったんですけど。 そのときは、もう疲れたし、お金もなかったし(笑)、もう無理って感じで。

就職活動は大学があった愛知と、実家の関西両方にまたがってやっていた。

実家(=京都)帰ってやってたときもあったし、名古屋でやってたときもあったし。 名古屋の方がやっぱり説明会の予約とかはとりやすい。ただ大阪東京の方が圧倒的に企業の数が多い。

東京行くお金がないから、親元で、ロームとか京セラとかの地元企業を。 でっかい企業がやるときは大阪までいったり。

受けた企業は、2006年の話なので記憶があやしいが、エントリーシートを出したのは15社ぐらい(?)。最終の3次面接まで進んだのは1社だけ。受けていたのはメーカー、商社などで、ローム、丸紅、京都銀行など。

はじめは花王もいいと思ったんです。おじさん(現在60歳ぐらい)が花王で、その時代に本名で就職してる。理系だったから、教授に紹介してもらって。だからその人がうちの家系では伝説みたいな感じで。

その影響もあって花王行きたかったんですけど、縁故採用はもちろんないって言われて(笑)。 でもまあいいや、いろいろ受けてたしって感じで。

ただ、自分は大きいとこばっかり受けてたんです。いま振り返ると、それがあんまり良くなかった。

親戚のおじさんが民族名の日本語読みで花王に就職しているそう。在日への徹底的な差別が常態だった、2世の時代では非常にまれ。京大で理系の推薦就職だったことも大きかったのかもしれない。おじさんは韓学同(インタビュアーもしていた学生団体)をしていたそうです。

就職活動した名前は、民族名の日本語読み。これは民族名で行きたい思いと、日本名でなければ受からないかもしれないという思いの中間をとった形。

留学同の活動を経て、ゼミやバイトでは本名(朝鮮語読み)で行っていたし、その名前で就職したい思いがあった。でも、本名で受かるわけないという親の考え、感覚にも現実味があったから、思いが揺れた。

そこで民族名の日本語読みで昔花王に就職しているおじさんがいるのをひとつの根拠に、折衷案として日本語読みにすることで民族名でいくことにした。

それを決める前、最初はもう日本名でいこうと思った。大学の事務の窓口に学籍名を変更しに行ったら、その前、留学同で活動をはじめてから名前を日本名から民族名に変えたときのことを持ち出されて、そんな頻繁に変えられては困るから、これで最後ですか?と聞かれた。

とっさに「え、ちょっと待ってください」と言って書類を取り下げた。 その足でゼミの先生に相談に行ったりして、考えて、出した答えが民族名の日本語読み。

※名前の考え方について詳しいことは→【就職活動の名前の悩み】

大学生活で頑張ったことは留学同の活動だったし、そこでの活動が自分の生き方や社会について考えるきっかけだった。面接でそのことを言うか迷ったが、理解されないと思って言わなかった。

面接では大学生活のことはバイトを中心に話して、「ついていきます」的な従順な感じをアピールした。でも在日の活動という形で社会的な活動をしていたから、その感性は社会貢献の考えを話すときなどに、話に説得力を出していたと思う。志望動機などの話題は、情報化社会への貢献や、文系の自分が理系の友人と付き合うことの大事さなど。

志望の職種は、法務だったが、法務は「司法試験受かってるか東大京大ばかり」と言われた。じゃあ、営業は自分に向いてないという考えで「それじゃあ営業は嫌やからその補佐みたいなんがいいです」ということで、今の仕事は生産管理になった。

その会社に受かった在日の人は知らなかったが、朝鮮奨学会の機関誌の奨学生の就職先欄に載っていた多くの企業の中にその会社もあったのを覚えている。

採用後の内定式の際の氏名変更の機会に、電話をかけてきた担当者に言って、名前の読みを日本語読みから朝鮮語読みに変更してもらった。

現在、企業の古い体質としての外国人への偏見のことなど、職場で割り切れない思いをして、上司と「バトってしまう」部分もあって、別の企業に行くことも含めて自分なりにいろいろ考えている過程。

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